ゆめの木のある日常

日常のちょっとしたことのつぶやき

幼少期の記憶

どもっ!ゆめの木です( ͡° ͜ʖ ͡°)

 

今日は、いまいち腰の調子が宜しくないので、午後から整骨院に行ってきました。こんな時に外回りの便利さを感じますな(╹◡╹)今日は定時で早めに自宅に戻り、今は携帯をポチポチと…寝ながら更新しとりますw  実は去年の3月にギックリ腰で入院した経験があり、リハビリ1年。ようやく走る程度の運動もできる身体になってきました。ギックリ腰の話はダイエット話が終わったら書こうかなと思います(╹◡╹)ギックリ腰は国民の多くの人が悩む事かと思いますので、少しでも参考になればと無駄に力んだ使命感を持っていますψ(`∇´)ψ

 

さて、今回のタイトル

幼少期の記憶

について、独り言レベルの思い込みではありますが書かせて貰います。

 

幼少期の比較対象

私には3歳年上の兄がいます。この時点で察しがつくかと思いますが、幼少期〜高校生頃まで、よく兄と比較されてきました。親は言うに及ばず、ご近所さん、さらには小中学校の先生に至るまで…

今時の学校の先生は、クレームマーな親の存在もあり、兄弟の比較を言う先生も減ったとは思いますが、当時は平手打ちや言葉の暴力は普通だったので良く言われていました。兄と比較されることがとても嫌な私でした(-_-)

幼少期に言われた事は残る

何で兄貴は出来るのに弟は出来ないかね。小学校の時、先生に言われました。今考えてもヒドイっすな〜(-_-)

お前の兄貴は…

お前の兄ちゃんは…

お前の…お前の…

大人になった今、思える事。自分のだらし無さは否定しません。最終的には自分の心の強い弱いは他人のせいには出来ない。認めます。しかしながら…

ナンダカンダ子供は素直だなと

何だかんだで子供って素直だと思います。そして幼少期に言われた何気ない一言って記憶に残る事があります。大人は子供に感情で怒る事もあると思います。ただ、言われた事に対して子供が子供なりに納得出来るかどうか。理不尽だと判断した記憶が積み重なると最終的にはどうなるか…

親に対して意見が言えなくなる

大人になった今でも自分の親に対しては本音が中々言えません。言っても無駄だと思ってしまう自分がいるから。勇気を出して発言した事に対して否定される。勿論、肯定もされる事はありますが、否定された事のほうが何故か記憶に残っています。なんだか自分って卑しいなw

 

最終的に何が言いたいかといいますと、子供の意見を一度受け入れる体制を忘れてはいけないと自分自身の反省かつ、自分自身への言い聞かせを書いていたのでした。

 

最後まで読んで頂き感謝です!

ではまた( ͡° ͜ʖ ͡°)